ふと思ったので

 学校から帰ってきて食事をとり、風邪薬を飲んだら眠たくなり目を閉じたら22時30分になっていた。最近寝て起きたらネガティブモードのスイッチが入るらしく、例外なく今も入っている。読者の方に不快な思いをさせたら申し訳ないが、とにかく将来に対して不安しかない。

 それの解決策を探したり考えたりするのだが、答えはすでに出ている。わざわざカナダに来た理由を突き詰めれば英語を学ぶためであり、人生を変えるためである。過去の私が解決策として最前であろう選択をしたわけで、今更それを否定したり別の道を模索したりするのは間違っている。

 ただ人の心というのは脆いもので、何かもっと楽な道はないか、と惰性な考えが浮かんでしまう。あまりにも上達しない英語にやきもきし、焦りを感じてしまうのだ。この焦燥感から目の前のことがお座なりになり、将来に対しての不安が生じている。

 振り返れば、そんな私でも自分で自分を褒められることが一つだけある。それは行動を起こしたことである。私は数年前まで、海外で生活するなんて想像もつかないほどに冒険のしないつまらない人間だった。無難よりも酷いレベルの生活を送っていたし、特別なスキルも持たないために現状を打破するだけの力が無かった。それがいよいよ30歳になるという時に仕事を辞める決断をした。新たな自分になるために準備をし、ギリギリの年齢でワーキングホリデーに申請し(いわゆるギリホリ)、その結果が今のバンクーバー生活に繋がっているわけだ。

 もう渡航数ヶ月前から私の精神は緊張で尖っており、英語の勉強をしなければならないのに言い訳をしてはテキストを脇に追いやり、いよいよ渡航する間際になってバタバタと準備をしてきたというわけだ。

日本の空。バンクーバーの空ではありません。

 周囲はどんどん結婚してゆくし、仕事面でも順調な人がいる。それに比べて私は・・・ってな具合で、御多分に洩れず不安増幅装置が安全に発動し、メンタルは最悪な状態だった。

 だがバンクーバーに来てみると、何だかそんな不安も少しだけ和らいだ。異国であるために毎日が必死だったというのもあるが、何より他人と比べることの無意味さをカナダの文化から感じてとっていたからかもしれない。道ゆく人々の肌の色は多種多様だし、カナダなのに使われている言語はバラバラだったりする。例えば中国語、韓国語、英語だったりスペイン語だったり。ほんといろんな言葉が使われてる。その空間に浸っていると自分も違っていて良いんだな、という気持ちになれるのだ。でもだからといって怠けて良い免罪符にはならないわけだが。

 このブログを見ていただいている数少ない方のなかにも、もしかしたら人生の転換期に差し迫っている人がいるかもしれない。こんな私だから言えることがあるのだが、それは誰でも最初は怖いということだ。新たな挑戦、新たな職場、新たな決断・・・。何事も初めてすること全ては怖いものだ。それは私自身人生を通して感じてきたことでもある。だがその怖い壁を乗り越えると今度は「慣れ」が襲ってきて、惰性モードに入っては「こんなはずじゃない・・・」と言った否定モードに入る。おそらく今の私のフェーズがここである。

 だからこそ、初心が大事になってくる。何でそれを始めたのか、目的はなんだったのか。それを軸にして貫けているかどうか。いわゆる初志貫徹というやつだ。

 私は大それた理想なんて持ってないけれど、それでも自分の人生くらい、自分自身で納得いくものにしていきたいとは思ってる。後悔なんて山のようにしてきたし、多分これからもしていくと思う。それでも後悔の気持ちが後押しして新たなことにスタートするきっかけになってたりするから、ほんと無駄なことなんて何もないと思ってたりする。

 本当はこういうことを英語でサラサラ書けたらかっこいいとは思うのだが、やっぱり日本語が一番しっくりくる。日本人は日本語で考えて日本語で伝えるのが一番楽だもん(言い訳)。

 最近薄々感じてきていることだが、英語ってシンプルであるということ。言い回しも直球だし、日本語の言い回しを表現するために全く違う言い回しに変換しなきゃいけなかったりする。おそらくそれが、日本人が英語をいつまでたっても上達できない理由の一つなのではないかと思ってたりする。つまりは、日本語の言い回しが多種多様すぎて、英語の言い回しにした時にあまりにシンプルになるもんだから、それを受け入れられない。日本語の言い回しをそのまま100%表現しようとして、それができないために英語って難しい・・・となるのではないだろうか。

 もう皆さんが知っての通り、日本語の一人称はたくさんある。私、おいら、わたくし、わっち、あたい、拙者、わて、おいどん・・・

 もうたくさんありすぎる。でもその一人称によって、それだけによってキャラが出来上がったりする。「わっち」という一人称なのに「サムライ」なわけないですよね。もしかしたらそんなサムライの一人や二人いたかもしれないけれども。「サムライ」は「拙者」であり、西郷隆盛は「おいどん」なんです。詳しく調べれば違うかもしれませんけどね。

 それが、英語だと全て「I」です。どんなに偉い人でも、どんなに破天荒な人でも、全て「I」。もうこのことだけでも、英語ってほんとシンプル。というか合理的ですよね。文章のなか、会話の中で極力伝えたい内容にフォーカスするために無駄なことを徹底的に削ぎ落とす感じ。1センテンスの中で全ての単語を発音するかと言ったらしないですからね。「of」とか「a」とか聞こえないですから。「can」も「can’t」も発音おんなじですから。それよりも「Really」とか「Great」とか、何を伝えたいかということに重きを置く。だから日本語のような繊細な言い回しは、英語にとってみればおんなじに見えるのです。「おっしゃる」も「申し上げる」も「言った」も「ゆーたやろ?」みたいな言い回しも全て「say」なんですから。

だからこの「言語」がその国の人々の精神を形作り、その人々によってその国が出来ていくように思うのです。どちらが優れているとか、そういう問題ではありません。英語には英語の、日本語には日本語の良さがあります。

 英語の合理性はそのまま仕事への姿勢に現れており、例えば、先生であっても授業が終わるとすぐに帰ります。ほんとすぐに帰ります。何なら生徒より先に、率先して帰っちゃいます。すごく合理的。

 一方、日本はそうじゃないですよね。何なら就業時間は第一ラウンドで、終業後が第二ラウンドだったりします。これは曖昧な言い回しがたくさんある日本らしい、曖昧な在り方ですよね。

 なので思うことは、「日本人」としての感覚で生きたいのなら「カナダ」にいるのは苦痛になるでしょうし、「カナダ人」で生きたいのなら「日本」で生きるのは苦痛になるということです。私はどうも今だに「日本人」の感覚から抜け出せていないようです。うだうだ考えないで、合理的に物事を考えること。無駄を極力排除すること。間違ってもいいんだというおおらかさを持つこと。それがもしかしたら英語上達への1番の近道なのかもしれませんね。