1ヶ月と3日目

散歩中に見つけた綺麗な花たち。ピンクと白の組み合わせが最高に癒される。

 カナダはバンクーバーに降り立って1ヶ月と三日目。日本を飛び出した時、こんな1ヶ月後のことを想像することなんてできなかった。飛び立つ前の最大の悩みといえば「税関を無事に通り抜けることができるのか」というものであった。カナダに入国さえできればこっちのもんという心持ちだったのだ。

 今こうしてブログを更新できているのも、当時の私からすれば全く未知の領域の私であり、今の私というのは当時の私ではない新しい私になっているとも言える。学校の授業にはついていくのがやっとの状況で、英語が話せずにもどかしさを感じていたりする。ただ、今のこの状況というのは、日本にいるときにずーっと思い描いていた挑戦したいことの一つであり、ようやく歩み出せた一歩目の状況とも言える。

 日本にいるときは、毎日目の前のことをこなすだけの毎日で、頭の中に理想と呼べるものを抱いていてもなかなか一歩を踏み出せずにいた。自分では変われないもどかしさをネットサーフィンなどで昇華し、他人がもたらしてくれる情報などに触れることで満足するという観客的な人生を送っていた。自分の人生なのにどこか捻くれてて、変われない自分に呆れ果てて拗ねているような状態。そんな人生を30年ほど続けてきた。

 だからこうして、亀の歩みのように遅くても少しずつ変わりつつある自分を見るのが実は嬉しかったりする。今月末には31歳になるという事実が、時間の流れの残酷さを実感するに至る。しかし、このブログのテーマのように人生を変えるのに早い遅いは関係ないように思う。確かに私は自分の人生を歩む覚悟を持たぬために変わるタイミングが遅かった。でも、日本にいて海外に出る覚悟を持たぬままありきたりな毎日を続けていたとしたら、きっと永遠に変わることはなかっただろうと思う。それは断言できる。30歳というギリギリの決断でワーキングホリデーという選択を選んだこと、行動できたことは、本当に自分でも驚くほどに大胆なシフトチェンジであった。

日本に居続けていたら、このバンクーバーの景色も見ることはなかっただろう。

 誰しも新しいことにチャレンジすることに躊躇いがある。恐怖心と呼べるものがある。その薄い膜を乗り越えるだけの決断をするのに30年かかった。でも、乗り越えてみれば想像していた恐怖は存在しなかった。あったものといえば、ジャンプすれば乗り越えられるハードルばかり。そのハードルは若干高めに設定してあるのだが、全身全霊で取り組めばそんなに難しいものでもないようなのだ。出し惜しみさえしなければ乗り越えられるハードルばかりが目の前に延々と置かれている。

 何でこのようなことを書いているのかといえば、今は実感はないのだが重大な人生の転換期にあるという思いがあるからだ。毎日の何気ない取り組みが、このようなハードルの一つ一つだったりしている。面倒臭くて、どれもこれも投げ出してしまいたいようなものばかり。一気に解決する手段がもちろんあるはずもなく、ただただ淡々とこなしていくしかない。

Queen Elizabeth Park からの景色。Downtownを臨めました。

 私は今は誰かを救える力だとか、誰かを笑顔にする能力を持ち合わせているわけではない。そのような人様の役に立つ人物でありたいと毎日思ってはいるものの、現実にはそうなっていない。だけどもしも、このようなブログを通して少しでも誰かの一歩を後押しできればいいな、とは思ってる。だから毎日とはいかないまでも、ちょこちょこと更新していけたらいいなと思っている。

 自分だけが良ければ他人なんてどうでもいい、という人がいると思う。というかそういう人がいることを知っている。一人二人の話ではない。そりゃもう途方もなく大勢の人々がそんな価値観で生きていることを知っている。だがそれと同じくらいの人たちが誰かのため、社会のために奮闘していることも知っている。西郷隆盛のように「私」を捨てて「公」に生きている人もいるだろう。そういう人を私は本当に尊敬する。

 今の歩みがどのような未来へ続くかは、今の段階ではわからない。1ヶ月前の私が今の私を想像できなかったように。だから今は目の前のハードルを越えることに意識を集中していくつもりだ。もちろん大まかな青写真は持ち合わせているが、必ずしもその通りに行くとは限らない。というより、人生を通してその通りに上手くしてこれた試しがない。いつかどこかで軌道修正を求められる。だけどもうここに来たからには逃げたくない。今までのように敗残兵のようなプライドが枯れ果てた生活に戻りたくない。

 そんな哲学的なことを書き記しつつ、今日も今日とて、YouTubeを見ては時間を潰す・・・∑( ̄Д ̄;)

ふと思ったので

 学校から帰ってきて食事をとり、風邪薬を飲んだら眠たくなり目を閉じたら22時30分になっていた。最近寝て起きたらネガティブモードのスイッチが入るらしく、例外なく今も入っている。読者の方に不快な思いをさせたら申し訳ないが、とにかく将来に対して不安しかない。

 それの解決策を探したり考えたりするのだが、答えはすでに出ている。わざわざカナダに来た理由を突き詰めれば英語を学ぶためであり、人生を変えるためである。過去の私が解決策として最前であろう選択をしたわけで、今更それを否定したり別の道を模索したりするのは間違っている。

 ただ人の心というのは脆いもので、何かもっと楽な道はないか、と惰性な考えが浮かんでしまう。あまりにも上達しない英語にやきもきし、焦りを感じてしまうのだ。この焦燥感から目の前のことがお座なりになり、将来に対しての不安が生じている。

 振り返れば、そんな私でも自分で自分を褒められることが一つだけある。それは行動を起こしたことである。私は数年前まで、海外で生活するなんて想像もつかないほどに冒険のしないつまらない人間だった。無難よりも酷いレベルの生活を送っていたし、特別なスキルも持たないために現状を打破するだけの力が無かった。それがいよいよ30歳になるという時に仕事を辞める決断をした。新たな自分になるために準備をし、ギリギリの年齢でワーキングホリデーに申請し(いわゆるギリホリ)、その結果が今のバンクーバー生活に繋がっているわけだ。

 もう渡航数ヶ月前から私の精神は緊張で尖っており、英語の勉強をしなければならないのに言い訳をしてはテキストを脇に追いやり、いよいよ渡航する間際になってバタバタと準備をしてきたというわけだ。

日本の空。バンクーバーの空ではありません。

 周囲はどんどん結婚してゆくし、仕事面でも順調な人がいる。それに比べて私は・・・ってな具合で、御多分に洩れず不安増幅装置が安全に発動し、メンタルは最悪な状態だった。

 だがバンクーバーに来てみると、何だかそんな不安も少しだけ和らいだ。異国であるために毎日が必死だったというのもあるが、何より他人と比べることの無意味さをカナダの文化から感じてとっていたからかもしれない。道ゆく人々の肌の色は多種多様だし、カナダなのに使われている言語はバラバラだったりする。例えば中国語、韓国語、英語だったりスペイン語だったり。ほんといろんな言葉が使われてる。その空間に浸っていると自分も違っていて良いんだな、という気持ちになれるのだ。でもだからといって怠けて良い免罪符にはならないわけだが。

 このブログを見ていただいている数少ない方のなかにも、もしかしたら人生の転換期に差し迫っている人がいるかもしれない。こんな私だから言えることがあるのだが、それは誰でも最初は怖いということだ。新たな挑戦、新たな職場、新たな決断・・・。何事も初めてすること全ては怖いものだ。それは私自身人生を通して感じてきたことでもある。だがその怖い壁を乗り越えると今度は「慣れ」が襲ってきて、惰性モードに入っては「こんなはずじゃない・・・」と言った否定モードに入る。おそらく今の私のフェーズがここである。

 だからこそ、初心が大事になってくる。何でそれを始めたのか、目的はなんだったのか。それを軸にして貫けているかどうか。いわゆる初志貫徹というやつだ。

 私は大それた理想なんて持ってないけれど、それでも自分の人生くらい、自分自身で納得いくものにしていきたいとは思ってる。後悔なんて山のようにしてきたし、多分これからもしていくと思う。それでも後悔の気持ちが後押しして新たなことにスタートするきっかけになってたりするから、ほんと無駄なことなんて何もないと思ってたりする。

 本当はこういうことを英語でサラサラ書けたらかっこいいとは思うのだが、やっぱり日本語が一番しっくりくる。日本人は日本語で考えて日本語で伝えるのが一番楽だもん(言い訳)。

 最近薄々感じてきていることだが、英語ってシンプルであるということ。言い回しも直球だし、日本語の言い回しを表現するために全く違う言い回しに変換しなきゃいけなかったりする。おそらくそれが、日本人が英語をいつまでたっても上達できない理由の一つなのではないかと思ってたりする。つまりは、日本語の言い回しが多種多様すぎて、英語の言い回しにした時にあまりにシンプルになるもんだから、それを受け入れられない。日本語の言い回しをそのまま100%表現しようとして、それができないために英語って難しい・・・となるのではないだろうか。

 もう皆さんが知っての通り、日本語の一人称はたくさんある。私、おいら、わたくし、わっち、あたい、拙者、わて、おいどん・・・

 もうたくさんありすぎる。でもその一人称によって、それだけによってキャラが出来上がったりする。「わっち」という一人称なのに「サムライ」なわけないですよね。もしかしたらそんなサムライの一人や二人いたかもしれないけれども。「サムライ」は「拙者」であり、西郷隆盛は「おいどん」なんです。詳しく調べれば違うかもしれませんけどね。

 それが、英語だと全て「I」です。どんなに偉い人でも、どんなに破天荒な人でも、全て「I」。もうこのことだけでも、英語ってほんとシンプル。というか合理的ですよね。文章のなか、会話の中で極力伝えたい内容にフォーカスするために無駄なことを徹底的に削ぎ落とす感じ。1センテンスの中で全ての単語を発音するかと言ったらしないですからね。「of」とか「a」とか聞こえないですから。「can」も「can’t」も発音おんなじですから。それよりも「Really」とか「Great」とか、何を伝えたいかということに重きを置く。だから日本語のような繊細な言い回しは、英語にとってみればおんなじに見えるのです。「おっしゃる」も「申し上げる」も「言った」も「ゆーたやろ?」みたいな言い回しも全て「say」なんですから。

だからこの「言語」がその国の人々の精神を形作り、その人々によってその国が出来ていくように思うのです。どちらが優れているとか、そういう問題ではありません。英語には英語の、日本語には日本語の良さがあります。

 英語の合理性はそのまま仕事への姿勢に現れており、例えば、先生であっても授業が終わるとすぐに帰ります。ほんとすぐに帰ります。何なら生徒より先に、率先して帰っちゃいます。すごく合理的。

 一方、日本はそうじゃないですよね。何なら就業時間は第一ラウンドで、終業後が第二ラウンドだったりします。これは曖昧な言い回しがたくさんある日本らしい、曖昧な在り方ですよね。

 なので思うことは、「日本人」としての感覚で生きたいのなら「カナダ」にいるのは苦痛になるでしょうし、「カナダ人」で生きたいのなら「日本」で生きるのは苦痛になるということです。私はどうも今だに「日本人」の感覚から抜け出せていないようです。うだうだ考えないで、合理的に物事を考えること。無駄を極力排除すること。間違ってもいいんだというおおらかさを持つこと。それがもしかしたら英語上達への1番の近道なのかもしれませんね。

散歩して花を撮影

カナダ時間 2019年8月6日(火)17:40

日本時間  2019年8月7日(水)09:40

昨日は「Riley Park」と「Nat Bailey Stadium」へ行って参りました。横になっているだけでは逆に不健康になってしまうと思い、近所で目的地になりうる場所がそれらだったのです。

Riley Park
Nat Bailey Stadium

直線距離にして2kmくらいでした。ギラギラ刺すような日差しの痛みに耐えながら、スマホのナビを頼りにたどり着きました。

何度も言うように、カナダの空は広いです。やはり空気がカラッとしているので雲がなく、暑いことは暑いのですが、湿気がないため汗もそれほどかきません。バンクーバーは都会ですが、住宅街は本当に静かです。日曜大工に精を出すおっちゃんもいれば、芝を刈るおばちゃんもいます。ゆったりした時間を過ごしているようです。

バンクーバーに来て思うことは、みなさん自動車を道に停めているということです。それが普通なんですかね。日本だと自分の敷地内の車庫に入れるところですが、ここではみんな道端に停めています。それでも道自体が広いから不便はしなさそうですけどね。

Main Street

上の写真が「Main Street」と呼ばれる道の写真です。どうです、メインストリートなのに交通量も日本に比べると余裕ありますでしょ?

一応国際免許証は持ってきたので、運転はできることはできます。しかし、左ハンドルと右通行にうまく対応できる自信がないので、運転するとしてもしばらく後になるでしょう。というか多分しません(キッパリ)。

Riley Park の中で花が咲いていたので、テンションが上がって写真を撮りまくりました。やっぱり花はいいものですね。花があれば平和になれますよ。ほんと。

Nat Bailey Stadium の敷地内には電気自動車の給電スポットがありました。街中にやたら日産のLEAFを見かけるなと思っていたら、やっぱり公共施設には給電所があったんですね。納得です。あと、テスラ車がすんごく多いです。日本ではあまり走ってないので、バスなどからテスラ車が走ってるのを見ると目で追っちゃいますね。やっぱりデザイン的に美しいです。いいなー。欲しいなー、テスラ車。

夕食。足りない。

そして、夕食はこんな感じです。足りないです。正直に言って。

来月までのホームステイ生活を楽しみます!

頑張れ私!